「もやし」がどうも好きになれない。
嫌いというわけでもない。食べることもある。しかし、敢えて「もやし」を食べようとも思わない。
味があるやら無いやら、ポリポリの食感も中途半端。色も付いているやらいないやら、全てが中途半端。と、数十年間思っている。
ところが、その「もやし」好きもいるから世の中は面白い。
昨日は仕事が遅くなり、夜11時ごろ帰宅し晩ご飯をいただいた。
夜11時に帰って、晩ご飯があることはありがたいことだ。感謝している。
この記事は晩ご飯の内容へ不満を表明しているブログでは決してないことを声を大にして表明しておく。
重ねて言うが、決して晩ご飯に不満は無い!!。
美味しくご飯をいただいた。料理の種類も量も申し分ない。
食べながらテーブルの隅を見ると、1つのお皿が。「もやし」だ。

冷シャブがあり、新鮮な野菜あり、こだわり豆腐あり、ついでにビールもあって、京都の漬物まであった。ビールに良く合うキムチもあったぞ。
こんなとき、私は「もやし」を食べる理由が思いつかない。
すると我家の「もやし」好きが隣に座って、「もやし」をポリポリ。また、ポリポリ。
まるで、「やめられない、とまらない、○ッパエビセン」(これって相当古いのでしょうか?)状態。
う〜ん。わからん。
軽くゆでた「もやし」だけをポリポリ食べる、意味が分からない。目的が分からない。
何も会話しないのもどうかと気を遣い「もやし、美味しい?」と聞いてしまった。
「もやし」好きの人は本当に好きらしい。好きな理由は次の通り。
「もやし」は他の何とでも合うし、他を活かす野菜。自分が自分がの人には「もやし」は理解できない。(それって、ボクを非難してる?と影の声?)
このシャキシャキ感があって、無機質な味は感性豊かな人でないと理解できない。(それって、ボクには感性がないってこと?と影の声)
ここまで主張していない野菜はないが、ラーメンに入ると「もやし」の味が引き出されて、存在感が出てくる。(いやいや、今はラーメンに入っていません、と影の声)
野菜炒めにも欠かせない。(いやいや、今は野菜炒めの話ではありません、と影の声)
そもそも、「もやしっ子」と使われるのは「もやし」がかわいそう。「もやし」はそんなひ弱な存在じゃない。結構しぶとい存在で、世の中には無くてはならない存在。(おいおい、そんな大きな話をしようと思っている訳じゃないから・・・)
「わかった。よ〜く分かりました」と言ってはみたけれど、昨日はやっぱり「もやし」は食べなかった。
最後に、「もやしは家で言うと、壁や天井の壁紙のようなもの。主張しすぎるとうるさいけど、なんとなくある存在でコットンクロスみたい」。
ビニールクロスではなくコットンクロスが出てくるところは流石だ。